文化芸術が市民生活に根づくイギリス
これまでにThe Beatlesを始め、数々の有名アーティストだけでなく、時代を席巻した音楽ジャンルを世に送り出してきた音楽大国・イギリス。
そんな同国で最近、イギリス議会のイギリス下院デジタル・文化・メディア・スポーツ特別委員会(Digital, Culture, Media and Sport Committee=DCMS特別委員会)が、「ストリーミングが音楽業界に与える経済的な問題」に関して、政府に提出する問題解決のための5つの提言を盛り込んだ報告書を公開しました。
前回の記事ではその主な内容について触れてきましたが、この記事では、そういった問題が議会で議論される背景として、80年代から現在にかけてイギリスで行われてきた文化支援の歴史を振り返りたいと思います。
これまでにイギリスの首都観光に行ったことがある人であれば、博物館や美術館に無料で入場できることに驚いたことがある人も少なからずいるのではないでしょうか?
例えば、ロンドンの名所でもある大英博物館やヴィクトリア&アルバート博物館、現代美術館として知られる「テート・モダン」などは、特別展をのぞき、無料で入場することができます。これは誰もが平等に文化を楽しめるようにとの考えから、2001年に政策として国立美術館・博物館の入場料を撤廃したことによります。
国立美術館・博物館の館長たちで構成される評議会(NMDC)によれば、入場料撤廃の前後10年で比較すると、それまで入場料を取っていた美術館・博物館の年間入場者数は、710万人から1800万人と約2.5倍に増加。2001年以前からすでに入場無料だったミュージアムでも、入場者数は22%増加したことが報告されています。
さらに、美術館・博物館を訪れる人たちも多様になったといいます。同国のデジタル・文化・メディア・スポーツ省(Department for Digital, Culture, Media and Sport=DCMS)が資金援助している美術館・博物館の場合は、マイノリティの入場者数も177.5%増加。また、労働者階級や低所得者層もアートを楽しむようになったことが報告されています。
実際に筆者がかつて住んだイーストロンドンでも街中で、小・中規模のギャラリーを見かけることも多く、興味さえあれば誰もがふらっと入場できる雰囲気がありました。
イギリスの政治と文化芸術の関係
このようにイギリスでは音楽だけでなく、アートなど文化が市民の生活に根づいている印象があります。しかし、同国の政治は文化に対して、ずっと寛容だったわけではありません。
1979年に政権に就いたサッチャー首相は、財政緊縮を主眼とする小さな政府を目指し、国営企業の民営化、ニュー・パブリック・マネジメント(New Public Management=NPM)の導入を進め、同国の経済は次第に再生が進んだ一方で文化予算は大幅に削減されることになりました。
サッチャー政権期に関しては、イギリスのアーティストが度々インタビューで“最悪の時代だった”と振り返ったり、実際にサッチャー政権に対するプロテストソングも作られているため、日本の音楽ファンの間でもそのようなイメージを持つ人が少なからずいることでしょう。
その後、1992年にサッチャーから政権を引き継いだメージャー首相政権において、文化省の創設が公約され、6つの省に分散されていた文化的責務をひとつにまとめた国民文化遺産省(Department of National Heritage=DNH)が創設されます。これはイギリスの文化政策史上、初の文化省と言われています。
そして、次の政権をになったブレア首相の政権において、DNHは文化・メディア・スポーツ省(Department for Culture, Media & Sport=DCMS)に改組されます。これにより同国で初めて「Culture(文化)」という言葉を冠した省が誕生したのと同時に、閣議に参加できる権限を持つ大臣が就任し、文化政策は国家レベルの議論の対象となりました。
当時のDCMSが司る範囲の中には、「アルコールとエンターテインメント」「建築とデザイン」「芸術」「コミュニティと地方自治体」など19分野が含まれましたが、その中のひとつである「クリエイティブ産業」には、映像、デザイン、コンピューターゲーム、テレビとラジオなど13の同産業を構成する分野が定められており、もちろん音楽も含まれています。
ブレア首相は90年代にロックバンド・Oasisで知られるNoel Gallagherのようなロックスターと親交を深めたことで音楽ファンの間でよく知られる政治家です。彼は労働党が1997年の総選挙で地滑り的勝利を収めたのを受けて、Noel Gallagherらを首相官邸でのパーティーに招いていますが、その直前にはそれまで政権についていた保守党から政権を奪取するために当時のブリットポップを中心とした“クールブリタニア・カルチャー”に接近し、若者たちからの支持を集めることに成功しています。
また、それ以前の1994年にもイギリスの音楽誌「Q」が毎年恒例にしている賞レース「Qアワード」に出席し、「ロックはイギリス人の文化と生活の大切な一部」とスピーチするなど、音楽文化に造詣が深い政治家というイメージを売り出していました。
ちなみに労働党党首を務めた政治家の中では、ジェレミー・コービンも若者文化に接近を試みた政治家として知られています。コービンは2017年と2019年に行われたブレグジットを争点とした総選挙時、同国の音楽シーンを席巻していたJMEらグライムアーティストたちからの大きな支持を集めました。彼らは「Grime 4 Corbyn」というキャンペーンを通じて、若者に選挙での投票を呼びかけるなど、コービンを支援しました(ただし、JMEの兄でグライムアーティストのSkptaは2017年12月に政治家たちが選挙のために「人々を利用している」と主張し、このキャンペーンを批判したほか、2019年時にはキャンペーンに参加しないことを表明するアーティストも出現しています)。
1997年に初代DCMS大臣に就任したクリス・スミスは、省の名前に「文化」という言葉を取り入れた理由として、「未来志向、現代的なイメージを強く打ち出そうと考えたため」とコメントしています。また、文化芸術全般について、社会に大きな波及効果をもたらす経済活動とも連動する創造的な活動と定義し、
“公共政策は、省庁を横断して総合的に考えられるべきであり、福祉、教育、経済などいずれの分野においても文化芸術を考慮に入れなければ立案できない。目指すべき公共政策とは、より多くの人に対しあらゆる分野におけるアクセスを広げ、人間が生涯を通じて知的好奇心を持ち続けることが大切なのである。文化芸術は創造力を生み出し、社会の再生につながる。そして、英国民のアイデンティティを形成する上で豊かな想像力を育む源となり、経済力を高める源でもある。これが21 世紀の英国にとって重要な公共政策なのである”
と、動的なイメージを強調しました。
文化芸術支援における政府外機関の存在感
DCMSの創設は、イギリスの文化政策を語る上で大きな転機となりました。同省が設立される以前は閣外の芸術大臣が任命され、政府外公共機関の「アーツ・カウンシル・イングランド(Arts Council England=ACE)」(1945年設立)が独立した機関として文化芸術政策と助成を担っていたものの、文化政策が国家レベルで論じられることはほとんどなかったのです。
国家レベルで文化芸術が議論されるようになったのは、芸術文化による地域再生やクリエイティヴ産業の成長など、社会的にも経済的にも芸術文化セクターの力が看過できなくなったためでもあります。これは同時に、政府の政策の枠組みと手続きに則って文化芸術に関する政策を実行しなければならなくなったことを意味しました)。
また、イギリスでは、1992年にDNHが設立される以前から、地方自治体が地方の公共文化施設、公立博物館・美術館、公共図書館、芸術活動に対して支援を行っていました。日本の文化庁のレポートによると、実際にイギリス各地方自治体の文化芸術への総投資額(毎年約11億ポンド)は、ACEの投資額(毎年約7億ポンド)よりも大きいことが指摘されています。
しかしながら、2008年のイギリスの財政危機以来、政府からの地方自治体への補助金は大幅に削減されています。これにより、地方自治体も福祉を優先し、文化芸術支援の優先順位は下がらざるを得ない状況になっています。そのため、地方自治体からの公共文化施設、公立図書館、文化芸術団体への支援にも大きな影響を及ぼす結果となり、地方の文化芸術団体も厳しい状況に置かれていることが報告されています。
イギリスの住宅・コミュニティ・地方自治省(Ministry of Housing, Communities and Local Government=MHCLG)によれば、地方自治体の文化芸術の発展、公立劇場や公共の娯楽、公立博物館・美術館、公立図書館などの文化施設に対する支援は、2010年〜2015年までの間に14億2000万ポンドから12億ポンドに削減され、5年間で16.6%もの減額となりました。当時、この傾向は当分続くと予想されたことから、各文化芸術団体は公的投資だけに頼るのではなく、自分たちで商業的活動により収益を上げる試みや健康や生活の質を上げる保健や医療分野との連携といった、様々な試行錯誤に取り組むようになりました。
そのような状況の中でも2016年には、約50年ぶりに「The Culture White Paper(文化芸術に関する白書)」が発表されています。イギリス政府は、文化芸術へのアクセスに対して最も恵まれていない立場にある青少年たちにそのアクセスを開いていくことを最優先とする政策を打ち出しており、特に政策目標として「誰もが人生のどの地点からでも文化が提供する機会を享受できること」「文化がもたらす豊饒さは、全国どのコミュニティにおいても受益できること」「文化の力は英国の国際的立ち位置を増強するものである」「文化への投資は回復力があり、改革する力がある」という4点が強調されています。
当時、DCMSとACEが注目したのが、2015 年に立ち上げられた文化芸術団体への社会的インパクト投資を行うファンドであるアーツ・インパクト・ファンド(Arts Impact Fund)です。これは、文化芸術による課題解決を試みている団体に対して15万ポンド〜60万ポンドまでの金額を融資するパイロット・プロジェクトです。このプロジェクトにより、2016年にはダンス・エージェンシーの「サウス・イースト・ダンス」「ティッチフィールド・フェスティバル・シアター」「ボウ・アート・トラスト」の3団体が投資を受けることになりました。
そしてDCMSは、文化・メディア・スポーツ省という名称から2017年に現在のデジタル・文化・メディア・スポーツ省(Department for Digital, Culture, Media & Sport、略称は以前と同じDCMS)に改称されることになります。
コロナ禍におけるロビイングと、今後の文化芸術政策のゆくえ
予算は縮小されつつも文化支援に力を入れてきたイギリスですが、同国のカルチャーシーンは昨年のコロナ禍により、深刻な危機に陥りました。
その影響を受けて、昨年7月にイギリス政府は、コロナ禍によるロックダウンで危機的状況に陥るも営業再開の目処が立たないまま休業が続く、劇場やコンサートホール、美術館など文化施設を救済するため、約15億7000ポンドの包括的支援策を発表しています。
当時、オリヴァー・ダウデン文化相はこの支援策について、芸術と文化は「この国の魂」で「この国を偉大にするものだ」と述べつつ、「世界有数で急成長を続けるクリエイティブ産業の中核」と呼び、「芸術分野が深刻な状況に直面しているのは理解している。将来世代のため、芸術分野を保護し、できるだけ守らなくてはならない」と強調しています。
支援策によるイギリス政府の緊急補助金やつなぎ融資は、ミニシアターや歴史遺産、ライブハウスなども対象になりました。しかし、クラブやフェスティバルが助成金の対象となることが明らかになったのは、ナイトライフ業界やコミュニティによる「#LetUsDance」キャンペーンが始まってからのことで、独立した基金や助成金、休職者や自営業者の所得補償スキームを除けば、政府からのミュージシャンやアーティストへの直接的な援助はそれまであまり行われてこなかったことも報告されています。
昨年9月の段階ではイギリス国内のアーティストのうち、3分の1が音楽のキャリアを放棄することを検討していることも音楽家の労働組合「Musicians’ Union」の調査によって明らかになっています。組合員約2000人を対象にしたこの調査では、ミュージシャンの87%が2020年の収入が2万ポンド(イギリスの平均年収は2万9600ポンド)以下になることが判明。半数近くのミュージシャンが音楽以外の仕事を探すことを余儀なくされていることも明らかになったほか、70%のアーティストが“普段の仕事の4分の1以上を確保できていない上、36%は“全く仕事がない”と回答しています。
その一方、昨年10月にはコロナ禍の影響により、ナイトライフやライブビジネスの再開が長期に渡り不可能になるという見解があったことから、リシ・スナック財務相が「ミュージシャンや俳優、アーティストなど文化芸術業界のフリーランサーは、今までの仕事に固執せずに別の仕事を探すことを検討するべき」と取れるような発言を行いました。
この発言は物議を醸し、ドラムベースシーンの大御所DJ/プロデューサーで、大英帝国勲章(経済人、文化人、芸能人、スポーツ選手などに与えられる勲章)のひとつ「MBE」受勲者でもあるGoldieが「アートとナイトライフの結びつきがイギリス経済を後押ししている」「政府がそれらを切り捨てることは国家にとっては大きな経済的損失になる」と訴えるなど、アーティストたちから激しい反発の声が上がりました。実際に、イギリスの音楽産業の経済価値は年間52億ポンドで、夜間労働である清掃、飲食、警備、交通などを含むナイトライフ産業全体だと、年間660億ポンドにも上ると言われています。
その後、ACEはクラブやライブハウスなどの音楽ベニューなど文化施設やカルチャーメディアを対象とした「Cultural Recovery Fund(CRF)」やDJやミュージシャン、パフォーマーらを対象とした「Developing your Creative Practice(DYCP)」といった助成金を給付しています(なお、CRFでは大規模な有名クラブなどが助成対象になる一方で、対象から外れる応募者が出たことが物議を醸しもしました)。
最近のACEのライブミュージックビジネスとの取り組みでは、今春、ロンドンを代表するクラブ「fabric」が主催したライブDJ配信イベントシリーズ「London Unlocked」が挙げられます。ACEとパートナーシップを組み実施されたこのシリーズでは、先述のヴィクトリア&アルバート博物館や今年3月に開場150周年を迎えたロイヤルアルバートホールなど、ロンドンの観光名所としても知られる由緒正しい文化施設が会場に選ばれています。
このようにイギリスでは政府だけでなく、政府外公共機関であるACEによっても経済的な支援が音楽を含む文化芸術分野に対して行われていることは特筆すべきと言えるでしょう。
アーティストやDJ、音楽業界人だけでなく、時に政治家さえも巻き込む力を持つイギリスの音楽カルチャー。立場は違えど、その影響力の大きさをそれぞれが理解し、公の場で積極的に発言したり、それに対して異を唱えたりすることの繰り返しで、状況が変化してきた歴史があります。省庁の特別委員会の報告書をきっかけに「ストリーミングが音楽業界に与える経済的な問題」に関する議論が巻き起こる今回のような事態も、同国では必然と言えるのかもしれません。今後も状況を注視していきたいところです。
執筆:Jun Fukunaga
【参考サイト】
https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/pdf/r1393024_04.pdf
https://www.ntj.jac.go.jp/assets/files/kikin/artscouncil/report20180930.pdf
https://madamefigaro.jp/culture/feature/180713-tatestives.html
https://www.wbur.org/cognoscenti/2013/04/10/the-iron-lady-as-muse-steve-almond
https://www.independent.co.uk/arts-entertainment/music/features/the-britpop-years-103571.html
https://eprints.lancs.ac.uk/id/eprint/133439/1/11003507.pdf
http://www.news-digest.co.uk/news/features/3292-uk-rock.html
https://nme-jp.com/news/101829/
https://i-d.vice.com/jp/article/qvkdww/10-things-we-learnt-from-teaming-up-jme-with-jeremy-corbyn
https://fnmnl.tv/2017/05/16/30170
https://nme-jp.com/news/82140/
https://mixmag.net/read/uk-chancellor-rishi-sunak-musicians-arts-nightlife-new-job-news
https://www.independent.co.uk/news/people/goldie-dance-music-pioneer-awarded-mbe-prince-charles-a6894446.html
https://jp.ra.co/news/73630
https://jp.ra.co/news/73742
https://ra.co/news/73819
https://ra.co/news/73759
https://mixmag.net/feature/djs-artists-rishi-sunak-government-support-nightlife
https://www.ukmusic.org/news/music-industry-contributes-5-2-billion-to-uk-economy/
https://www.fabriclondon.com/blog/view/newsflash-announcing-london-unlocked-a-series-of-streams-from-iconic-london-locations
*オリジナル掲載先のSoundmainサービス終了により本サイトに移管(オリジナル公開日は2021.07.29)