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1人の『テラスハウス』ファンが今、思うことその2 「テラスハウスは敗者の味方」という視点について

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先週末の悲痛極まりない事件をきっかけに大方の予想どおり、『テラスハウス』が打ち切りを発表した。

 

これも大方の予想どおりだが、やはり事件をきっかけに様々な意見が噴出したのだが、今、現在に至っては政治的な要素が絡み出したほか、再生回数とそれに伴うアフィリエイト目的の不謹慎系YouTuberの乱立、さらには「テラスハウスなんて番組観たことないけど」とにかく何かを物申したい人、元スタッフによる暴露、さらにはメディアの行き過ぎた行為に故人の親族や近しい関係者が悩まされるなど、開いてしまった地獄の釜の蓋がひっきりなしに開き続けているような状態だ。

番組のファンとして思うことは以前、ひとしきり述べたが確かに番組側の体制には問題があったことは間違いない。人格否定するほどのSNSによる匿名での誹謗中傷には確かに何らかの規制は必要だろう。

しかしながら、現在の状況は少なくとも健全な批評的な批判なのだろうか? あまりにも多くの罵詈雑言に過ぎない寄せられるコメントを見ているとそう思わざるを得ない部分は確かにある。そのため我々は一体あの事件、いや事故をきっかけに何を学んだというのか? 誰か正しい答えを示して、この地獄の釜の蓋を閉めてはくれないものだろうか? そう切に願うばかりである…。

このように予想をはるかに上回る地獄絵図が現在、SNS上に広がり続けているのだが、少なくとも番組のファンであったなら真摯に向き合いたいのがこのコラムで述べられていた”「テラスハウス」は敗者の味方”という視点だ。

telling.asahi.com

一般的に『テラスハウス』とは明日の成功を目指す若者がキラキラしたライフスタイルの中で恋愛をしたり、青春したりという番組だと認識されていると思う。そしてそれなりに長い期間、番組が続いたことにより、打ち切りとなった東京編では”何者でもない若者が何者かになる”要素が、芸能界でのキャリア促進のためのある種のシステム化されていたことが透けて見えていたことは間違いない。

しかしながらそのコラムで焦点が充てられたのは、先述のとおり、”「テラスハウス」は敗者の味方”という点だ。内容を詳しく書くことはここでは割愛するが、以下の部分は是非とも引用させていただきたいと思う。

「テラスハウス」って、敗者の味方なんです。夢破れた奴とか、仕事がうまくいかない奴とか、モテない奴とか、痛い女とか、そういう敗者の味方なんです、初期から。初期こそ特に。どんなにダメな奴でも一緒に生活する誰かに支えられたり、刺激を受けたり、スタジオの芸人さんが笑いに変えてくれたり。最近のテラハを見てるとそういうことを忘れかけてたけど、「テラスハウス」ってやっぱそれなんです。どれだけイケメンかとか、どれだけ美人とか、どれだけオシャレとか、どれだけキュンキュンするかとか、そんなのどうだっていいんです。そんなもののために「テラスハウス」を見ているわけじゃない!いや、キュンキュン大事か、美人もいいなあ、いや、それが一番じゃない。人の暗部やヒリヒリ痛い人間関係などもテラハの魅力の一つですが、やっぱり一番は、敗者の味方ってことだ、と個人的には思います。

引用にあるようにテラスハウスの住人は誰もが成功するわけではないし、人間的に問題がある住人だっていた(今となっては演出だった可能性もあるが)。そういう人間にも居場所を与えるという視点は、番組のキラキラした部分だけを追っていたり、住人の悪い部分のみにことさらフォーカスしているとなかなか気づくことはできないものである。

”人の暗部やヒリヒリ痛い人間関係などもテラハの魅力の一つ”に関しては、結果的に誹謗中傷の原因になったかもしれないが、ファン、もしくはアンチであっても定期的に番組を視聴していたのであれば、”やっぱり一番は、敗者の味方ってこと”にもっとフォーカスするべきだったのではないだろうか? そこが悔やまれる。

全ては後の祭だが、視点を変えればこれほどに見方、捉え方が変わる。おそらくこの世の中の事象とは全てそのようなものなんだと思う。

また、これは「テラスハウスなんて番組観たことないけど」派の方にあえて求めることではないと思うが、批評的に何かを批判したいのであれば、この視点についても理解は必要なのではないだろうか?

結局、世の中に必要なのは様々な面に作用する"想像力"であり、その欠如が不幸で、不条理で、悲痛な出来事を引き起こしている。そう思えてならない。